「憲法記念日」に思ったこと・・・
今日は子供の日だが、最近「鯉のぼり」を見る機会がめっきり減ったせいもあって、5月連休も何の祝日か、忘れてしまっていることが多い。
2日前の5月3日、どうもテレビで憲法論議が多いと思って、よくよく考えたら「憲法記念日」だった。
私は今まで「ブログ」で、あまり政治的な発言はしてこなかった。
特に理由はないが、憲法については、この機会に普段思っていることを少し・・・
私は基本的に以前から「改憲」には賛成だし「憲法9条」も見直せばイイと思っている。
戦後75年以上が経ち、価値観や国際情勢も大きく変化している中、憲法や国の立ち位置については、やはり議論すべき時だと思う。
一方で護憲の人たちは、まず話し合うこと自体を拒否しているように見える。
そして不思議に思うのは、意外と文化人、知識人やインテリが多いことだ。
まあ彼らの基本的な立ち位置は、常に反体制、反政府なのかもしれないが・・・。
しかし彼らは戦後、日本が平和を維持出来たのは「平和憲法」9条、第2章の「戦争の放棄」のお陰だと本気で信じているのだろうか。
ではもしウクライナに、日本と同じような「平和憲法」があったら、ロシアは攻めなかったと言えるのか・・・。
「平和憲法」の理念は素晴らしいが、それが抑止力に繋がっているとは到底思えない。
戦後、どこの国も日本を攻めず、今まで平和を維持出来ているのは、日米安保条約があるからで、憲法9条ではないと私は思う。
それに自ら、いくら戦争を放棄するといっても、戦争は一人で出来ない。
相手があっての戦争だし、例え平和条約(厳密には不可侵条約)を結んでいても、安心出来ないことは、終戦間際に北方四島を占領されたことでも明らかだ。
すぐに降参して、一方的に相手国の領土にならないためには、常にその時代に相応しい抑止力は必要だと思う。
街でヤクザに絡まれそうになった時、もし私が拳銃を持っていると知ったら絡んでこないのと同じ理屈だ。
けんかの強そうなヤツには、けんかを仕掛けないのは、人も国も同じだと思う。
もちろん話し合いで問題が解決出来れば、それに越したことはないが、出来ないから紛争が起こって戦争に繋がるのだ。
また日本の常識が、国外で通じると思わないほうがイイ。
日本の常識=世界の非常識は、昔からずっと言われていることで、私も散々経験している。
以前、インドとパキスタンが核を持つことに世界中が反対したが、一旦持ったら核保有国として認めざる得なくなったし、お互いに中途半端な紛争は出来なくなったのも事実。
結局、双方の核が抑止力として、機能している一例だろう。
北朝鮮が核保有国になろうとしているのも、アメリカが一方的にイラクやリビアを攻撃したことから学んだ結果だ。
核があれば、核で反撃される危険があるので、どの国も簡単に攻撃出来ない。
また護憲を支持する左翼系の人は、現在の日本は右翼化が進んで戦前の状況に近づいていると訴え「戦争反対」を声高に叫ぶが、今の日本に「戦争賛成」の人がいるとは思えない。
百歩譲って、ごく一部に領土拡大を画策する日本人がいたとしても、戦前の情報統制が出来た時代や一党独裁国家ならともかく、今はネットで誰もが自由に発言出来る世の中だ。
新聞一つとっても、左も右も存在するので、国民は自分で読み分けることが出来るし、日本は各自が自由に判断出来る社会である。
またコロナへの対応でもわかるように、国民が反対することは今の政府には出来ない。
万一、護憲派がいやがる改憲投票になっても、国会議員の3分の2の賛成がないと国民投票まで辿り着かないし、国民投票になっても、国民の半分以上の賛成がないと改憲出来ない。
それなのに護憲派の人たちは、投票になること自体を恐れ、何とかその前で阻止しようと躍起になっているのは、投票になったら負ける自信があるのだろうとしか思えない。
少しのつもりが止まらなくなってきたので、この辺で止めておきます。
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