因果関係と運命論・・・
この時期、気分転換に白崎の「ログハウス」へ来ても、正直あまりやることはない。
ウッドデッキから荒れた海を眺めるのは、それなりに迫力があってイイが、寒くて長くは留まれない。
昨日の白崎海岸
庭いじりも寒くてやりたくないが、どんなに寒くても雑草はそこそこ生えてくるから、大した生命力である。
テレビはあるが、AmazonプライムやNetflixはここでは観られない。
Spotifyで好きな音楽を聴きながら、本を読むか「ブログ」を書くぐらいで、まあ早い話が暇なので、普段は考えないどうでもイイようなことを真剣に考えたりする (笑)
そこで前回の「ブログ」の続きになるが、脳科学者と仏教学者が結論として「世界を成り立たせているのは因果関係」だという話が、どうも頭から離れない。
言い換えれば、何事にも必ず原因 (要因) があって、結果があるということだが、逆に言えば原因のない結果はないということか・・・。
では偶然とか運とは、一体何だろう?
私は人生7割は運で、自分が努力したりコントロール出来る部分は、3割程度だと常々言ってきたし、今もそう信じている。
もし運も因果関係で、説明出来るとすれば、運を引き寄せる何らかの原因 (要因) があって、結果として今の自分が存在しているということか・・・。
また一見、偶然と思われる出来事も、何か原因があっての結果、偶然が発生したということなのか・・・。
例えば、バスに乗っていて事故にあった場合、本人には何の落ち度もないが、そのバスに乗ったことを原因 (要因) とすれば、事故は結果であるので、そこに因果関係があったと言えなくはない。
しかし一般的には、それを因果関係と結びつけるのではなく、単に運が悪かったという話になるだろう。
同じ事故で、怪我した人としない人の違いは、運が良かったかどうかで判断するのが一番妥当だ。
宝くじを買って一億円当たれば、買ったことが当たった原因 (要因) で、一億円はその結果であるとも言えなくはないが、これも単に運が良かったという話ではないのか・・・。
ただ私の白崎の「ログハウス生活」を結果とすれば、コロナ禍という原因 (要因) がなければ、現在私はここにいないのは確かである。
また過去の自分の人生を顧みれば、そのほとんどは偶然の出会いや、運を含む原因 (要因) があって、今の自分に繋がっている気はする。
しかし今、結果だと思っていることも、将来のある時点から見れば原因 (要因 )であって、まだ結果とは言えない。
何だか、ややこしい話になってきた。
因果関係の最後の結果は、死ぬ時に決定づけられるのだろう。
また世の中の出来事は、あらかじめ決まっていて、人間の努力では変えられない「運命論」という考え方もある。
私は時々、その考え方に理解を示すというか、納得することがある。
私が今ここ白崎の「ログハウス」にいて、こうして「ブログ」を書いているのは、生まれた時から既に決まっていたという考え方だ。
決まっているから、努力しない人はしないことが初めから決まっていて、努力する人は初めから努力することが、決まっているのが運命論である。
因果関係と矛盾するわけではないが、運命論では信仰や徳を積む行為が、無意味になる可能性があるので、矛盾しないよう仏教では、その業が軽減されると説いている。
またよく分からなくなってしまったので、誰か教えて欲しいです (笑)