リタイヤ男のログハウス生活

リタイヤ後に海の近くのログハウスで第三の人生スタート

「モネ」と「古代メキシコ」特別展・・・

数日前、大阪中之島美術館へ「モネ」を観に行って来た。


平日だったが、朝イチということもあり、既に多くの人が入口に並んでいた。


日本では、有名な印象派の画家の展示会は、どうも人気が高いようである。



「モネ」といえば睡蓮、睡蓮といえば「モネ」というぐらい睡蓮が有名だが、彼は生涯200点以上の睡蓮を描いたようだ。


どうりで私も、今まで各国の美術館で「モネ」のいろんな睡蓮を観たと思った。


しかし今回は「モネ 連作の情景」というテーマの展覧会で、同じ場所から時刻や季節の違う時期に描いた連作の風景画が中心で、睡蓮はごく一部だけだった。


ただ、キャンバス全体にひろがる淡いピンクのトーンをベースに、独特のタッチというか筆使いで、睡蓮でなくても一目で「モネ」だと分かるところはさすがである。


一方、隣の国立国際美術館で、古代メキシコの特別展が開催されていると知って、私はそっちにも興味があったので、急遽美術館をハシゴすることに・・・。



レプリカや写真含め、かなりの数のマヤ アステカ テオティワカン文明に関する展示物が所狭しと並んでいた。


そして、それらの品をじっと眺めていると、突然40年以上前にワープしたような気分になった。


というのも20代の後半、私は中米に住んでいたので、自慢じゃないがティカル、パレンケ、チチェン・イッツァやコパンなどのマヤ遺跡を訪れた経験がある。


というのは、ほぼ自慢だが・-・・ (笑)


なのでマヤ遺跡や文明については、特別な思い入れがあったし、関連する文献も結構読んでいたので、これも自慢じゃないが (笑) そこそこ詳しい。


彼らは日々天体を観測しながら、今のカレンダーとほとんど変わらない暦や独自の文字を持っていたし、数字のゼロの概念も理解していた。


周囲に大河もないジャングルの真ん中に、あれほど高度な文明を築いたことで、宇宙人説が飛び出すぐらい今も多くの謎が存在する。


当時、ボロボロのミニバスを乗り継ぎ、時間をかけて各地に点在している「マヤ」の神殿やピラミッドを訪れたことで、より親近感と興味が深まった。


一方、人間を生贄とする「人身供犠」という慣習には正直驚いたが、科学のない時代の倫理観として理解出来る部分もある。



それは自らの願いを達成するには、それ相応の犠牲が必要だという考え方である。


具体的には、日照りが続いて農作物が枯れそうな時には、自分の子供を池に投げ入れ雨乞いをするとか、生きたままの人間の心臓を取り出して、神に捧げるなどの儀式である。


犠牲にするものが、自分にとって大きければ大きいほど、願いが叶うと信じて、一番大切な幼い自分の娘をセノーテと呼ばれる池に投げ入れたりもしていた。


ただ雨は自然現象なので、いつかは降る。


そして雨が降れば、自然の神に犠牲を捧げたお陰だと思い、延々と同じ行為を繰り返していたんだろう。


悲惨な話だが、何となく分からなくもない。


なぜなら世の中は神のもと、全てプラスとマイナスのバランスで成り立っていると信じれば、大切な娘を犠牲にして、そのバランスを無理矢理ゼロに戻すという発想はありだろう。


言い換えれば、良いことと悪いことは、必ず「表裏一体」であると信じれば納得がいく。


またここまで極端でなくても、日本でも昔から似たような習慣があった。


例えば、身内が重い病で生死の境を彷徨っている時、家族が冷たい井戸水や時には滝に打たれ、完治を祈る荒業をやる。


これは現在でもやっている人がいるかもしれないし、もっと卑近な例では我が子の合格祈願に、親が酒を断つのも似たような発想かもしれない。


どっちも突き詰めれば、物事の本質とは関係ない努力や犠牲に、一体どれほどの価値や意味があるのかと思ってしまうが・・・。


一方これだけ科学が進歩しても、身近な人が苦しんでいたら、その苦しみに寄り添ったり、少しでも分かち合いたいと思う気持ちが芽ばえるのはよく理解出来る。


これは「人見供犠」とは違うが、どうも話が「ブログ」の主題からズレてきたので、本日はこの辺で終わりにします。





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