リタイヤ男のログハウス生活

リタイヤ後に海の近くのログハウスで第三の人生スタート

夢と現実からメタバースへ・・・

最近、よく夢を見る。


以前、夢を見るのは眠りが浅いからといわれたことがあったが、最近は睡眠が十分過ぎて、逆に眠りが浅くなっているのかもしれない。


明け方に見る夢は、目が覚めても結構記憶に残っており、楽しい夢の余韻に浸ることもある。


夢で食べたものの味覚まで感じるというか、感じたと思っているのも妙な気分・・・。


なぜか遠い昔の夢、幼い頃や会社に入社した当時の夢もよく見て、もう何十年も前に亡くなった父親と普通に会話していても何も感じないから不思議なもんだ。


夢といえば、最近仏教の本を読み出して感じたことがある。


それは夢と現実に、大きな差や違いはないのではないかということだ。


仏教には「唯識思想」というのがあり、最近学んで興味を持った。


それは「あらゆる存在は、心の本体である(識)が作り出す仮に現れたものに過ぎない」としている。


即ち「この世界に実体はなく、ただ心が作り上げた虚像である」と・・・。


ここまでは聞いたことがある人も多いと思うが、ここからは私の独説。


この考えを基に先ほどの夢の話をすると、夢も現実も時間軸が短いか長いかだけで、永遠には続かない瞬間の虚像でしかないのは多分同じではないかと思えるようにもなった。


楽しい夢は、僅か数分いや数秒かもしれないが、見ている時に夢であるとの意識はない。


一方、現実に起こっている楽しいことも、数時間、数日、いや数ヶ月続くかもしれないが、唯識思想的にいえば仮に現れたもので共に永遠ではない。


時には長いと感じられる現実も、地球や宇宙の歴史から見れば、ほんの一瞬の出来事で夢とも大差ないと言えるのではないだろうか・・・。


唯一、夢と現実の違いで思い浮かぶのは、夢で人を殺しても罪には問われないが、現実に人を殺せば殺人犯になることぐらいだ。


これは「ただ心が作り上げた虚像である」では済まされない。


「だから、どうなんだ!」と言われても困るが、私は夢を通して仏教の唯識思想が少しだけ理解出来るようになった気がした。


そして今、新たに登場した厄介な概念「メタバース」


昨年夏にNHKのBS1で、一度放送された「欲望の資本主義2022」「メタバースの衝撃デジタル経済のパラドックス」が昨年末に再放送され、初めて観たが大変面白かった。


とはいえ、アラログ世代のアナログ人間の私には、多分半分も理解出来なかったが、既にコンピューターの中に構築された3次元の仮想空間やサービスが存在している。


メタバースはユーザーがアバターを使って社会生活を送れる仮想世界のことをいうようだが、既に2021年以降、利用者は自分の分身で買い物や物販、なんと土地まで自由に売買しているらしい。


LINEの私のアバター、どうも年齢はあまり考慮されていないようだ


先ほど話した夢や現実とは全く違う新たな世界観で、正直こうなると、今の私には「もうお手上げ!」としか言えない。


新しいことを学んだり、考えたりするのは楽しいが、私が何とかついていけるのは、VRと仏教の話ぐらいまでだ。


「メタバース」となると、興味はあってもなかなか頭が追いつかず大変です。

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