人生、最後に残るのは・・・
最近「ブログ」を書くのが、日課ではなくなり、どうも生活の一部でもなくなってきている。
なので気がつけば、間が開いたり「ブログ」の中身も気持ち的にも、少々マンネリ気味である。
ただ「ブログ」は、唯一自分が好きな時に、言いたいことを自由に表現出来る場なので、すぐに止めるのは惜しい。
これから年末年始にかけて、暇な時間はたっぷりあるので、「ブログ」も今後のこととして、どうするか考えたい。
さて先日、滋賀県石山にある母親の介護施設へ、面会に行って来た。
だいたい月一度のペースでワイフと会いに行ってるが、私の弟夫婦も同じペースで行ってくれているので、彼女は月に二回程度は息子達に会っていることになる。
来年1月には95歳になるが、杖をつきながらも自分の足で歩けるし、耳はだいぶ遠くなったものの、我々のことも認識出来るので、年齢の割には元気だと思う。
しかし記憶は徐々に曖昧になってきていて、最近では数日前に訪ねてくれた知人のことも全く憶えていない。
我々のことも帰った途端、すぐに訪問したことすら忘れている可能性がある。
翌日再び訪問したら「また来たの?」ではなく、間違いなく「久しぶり」と言うだろう。
昔の記憶はハッキリしていても、数分後か数時間後かは分からないが、すぐに新しい記憶だけが消えてなくなるのは、一体どんな感覚なんだろうか・・・。
記憶の構造そのものに、興味が湧いた。
私は過去のある出来事が思い出せない時、自分の記憶力をコンピューターのメモリーに例え、私の頭の容量は16メガバイト程度で新しい出来事があると、古い記憶は自動的に消去されると冗談まじりに友人に話して、ウケたことがある。
16メガバイトとは、随分容量が小さいので、かなり昔の話だったようだ。
しかし母親を見ていると、まんざらその考えが的外れではないと思い始めた。
歳をとって記憶出来る容量が、既に限界まで達したので、新しい記憶からどんどん消去されているのではないかと・・・。
何メガか何ギガかはわからないが、また記憶するに値しない情報から順に消去するとすれば、身体が弱って施設に入っている今の状況は、消しても惜しくない記憶だと言える。
まあ容量が、決まっているというのは言い過ぎだが、母親は元気で楽しかった頃の昔の記憶は消したくないというか、きっと忘れたくないのだろう。
私もこの歳になって、初めて分かったことも多く、ホントのところは母親と同じ年齢にならないと理解出来ないとは思うが・・・。
確かスティーブ・ジョブズも、亡くなる直前に「人生の最後に残るのは思い出」だと言っていた記憶がある。
楽しかった頃の思い出にだけ包まれて、残りの人生を生きるのも、悪くないかもしれません。
散歩コースの大阪城公園。このところ気持ちのイイ快晴の日が多い