幸せな気分になるには、辛抱や我慢が大切・・・
大阪から白崎の「ログハウス」に戻って「ブログ」を書いている。
病気になって、初めて健康や平凡な日常のありがたさを思い知ったと、最近よく耳にするのは、私も歳を取った証拠。
確かにそう思うし、失って初めて気づくことは、たくさんある。
一方、病気は困るが、人間常に満たされている状態でいるより、何かが欠けていた方がいいと、後々になって思うことがある。
大昔に住んでいた中米では、部屋に水シャワーしかなかったので、数ヶ月に一度、首都の事務所で浴びた温水シャワーの快適さが未だに忘れられない。
またミャンマーでは、乾期に停電(日常茶飯事だが)でエアコンが止まり、部屋が40度近くになった時の息苦しさと、いつ回復するか分からない不安の中で、エアコンが復活した時の嬉しさが妙に記憶に残っている。
これらは何かが欠けて、初めて当たり前の生活のありがたさを思い知るパターンだ。
昨年まで住んでいたマレーシアでは、なかなか美味しい日本食にありつけなかった。
もちろん高額を払えば、食べられないこともなかったが、数ヶ月に一度は定期的に帰国していたので、日本へ戻った時の楽しみに途中から我慢するようになった。
即ち、現地で美味しい日本食が食べられないことで、日本へ帰る楽しみが増したし、我慢した分、帰国して食べた時の感動は倍増した。
寒い冬をじっと耐え、ようやくやって来る春が待ち遠しいのと似たような感覚だろう。
卑近な例では、3泊4日の座禅の修行体験で、たった3日間アルコールが飲めなかっただけで、家へ戻って飲んだビールの味は格別だった。
座禅の修行体験は65歳の時、仕事を辞めた区切りに。京都、亀岡にある宝泉寺にて
白崎の「ログハウス」で自炊を続けた後、大阪の自宅で食べるワイフの手料理はゴマスリ?ではなく、一層美味しく感じられる。
最後に、再び辛坊治郎氏に登場してもらおう。
彼曰く「幸せになる方法は、全てにおいて飢餓状態になることだ」と言っているが、全く同感だ!
常に満たされていることが最上ではなく、意識した辛抱や我慢の後に、幸せを感じる瞬間が来ることが分かれば、人生まだまだいろんな楽しみ方があると思います。